6.編集後記
先日、ドナルド・キーン博士の息子と会った。日本でも有名な日本文学研究者ドナルド・キーンが父ということだった。この息子さんは、キーン博士逝去の最後の日まで、生活を共にして感じた博士の人物や日常生活について自身が見たり感じたりしたこと、また日本に捧げた同博士の96年間の生涯についてじっくり話した。多くの日本文学の作家と親交があったキーン博士だったが、最も親しく交流した作家の一人司馬遼太郎とのことについて、直接聞いたこと、また書き残したことなどを紐解きながら長々と話してくれた。その息子とは、五代目 鶴澤浅造で、日本の三味線奏者、のちに越後 角太夫を名乗った人で、本名は、キーン 誠己という。
誠己(せいき)さんは、大学を卒業し、文楽義太夫節三味線方の世界に入ったあと、家業を継ぐため、新潟県に帰郷した。尚、ドナルド・キーンから、浄瑠璃など古典について指導を受けていた。これをきっかけにキーンとの交友が深まり、同氏から養子になるよう申し出があった。実際の子ではないということだ。博士は日本国籍を取得し、戸籍上の本名を「キーン ドナルド」としていたため、養子縁組に伴い誠己は「キーン」に改姓したと言い、その後、2019年2月まで誠己さんは、同博士の私設秘書を務めていた。周知のように、ドナルド・キーン(Donald Keene)は、米国出身の日本文学・日本学者、文芸評論家であり、最後はコロンビア大学名誉教授を務めた偉人である。第二次世界大戦でも日本軍と戦った人だが、幼い時から日本が大好きだったというから欧米から見れば変わった人であったかも知れない。博士は、いわゆる日本文化研究の第一人者であり、今でも日本文学の世界的権威とされている。著書に『百代の過客』(1984年)、『日本人の美意識』(1990年)、『日本文学の歴史』(全18巻、1976~1997年)など。2002年文化功労者。博士は、日本国籍取得後、本名を漢字で鬼怒鳴門(きーん どなるど)としたことも興味深い。息子の話を聞いていて、博士は、ニューヨーク市ブルックリンで貿易商をしていた家庭で生まれ、九歳の時、父に伴ってヨーロッパを旅行し、このことがきっかけでフランス語など外国語の習得に強い興味を抱くようになったらしい。15歳の時、両親が離婚、以後母とともに生活を営むことになり、経済的に困難したらしいが、非常に優秀であったため、二回飛び級し、ニューヨーク州最優秀生徒としてコロンビア大学のピュリッツァー奨学金を得ることに成功し、当時としては珍しく16歳で同大学文学部に入学したというのは米国ならではと言うか、日本では考えられないことだ。大学でもまじめに勉強し、ある講義で中華民国人学生と親しくなり、そのことがきっかけで中国語、特に漢字の学習に惹かれるようになった。1940年、ドイツのフランス侵攻など、欧州情勢に鬱屈とした日々を過ごしていたが、タイムズスクエアで古本として売られていたアーサー・ウェイリー訳『源氏物語』を手にとり、やがてその世界に魅せられるようになっていった。実際に手元に写真を持ってきて丁寧に見せてくれた時は、養子を感じさせないくらいの表情であ
ったのが印象的だった。

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月報編集室:主筆 上原 修 CPSM, C.P.M. JGA