3.おわりに:
現下のウクライナ戦争を日々見るにつけ自国のことを考えることが多くなったので今回は少し歴史を紐解くが、以下は、あくまでも事実を基礎にした私見である。
ロシアの南下政策を振り返る。ロシア南下政策の最大の目的は、年間を通して凍結することのない「不凍港」の獲得だったと言えるだろう。一般的な南下政策というのは、ある国家が南方に進出しようとする政策のことだが、単に南下政策と言う場合、ロシア帝国の南下政策を指すことが多い。18世紀以降、海洋進出に乗り出したロシアは広大な面積を有するものの、ユーラシア大陸の北部に偏って存在するため、国土の大部分が高緯度に位置し、黒海・日本海沿岸やムルマンスク地区、カリーニングラード等を除き、冬季には多くの港湾が結氷する。そのため、政治経済上、また軍事戦略上、不凍港の獲得が国家的な宿願の一つとなっており、歴史的には幾度となく南下政策を推進してきた。ロシアの国土は、冬が長く、寒冷・多雪の現象をもたらし、農業生産は必ずしも高くない。ロシア国民は、より温暖な南方の土地を求める願望には古来根深いものがある。
人口においても資源において西欧諸国とは比較にならない大国ロシアが不凍港を獲得し本格的に海洋進出を始めることに対し、西欧諸国は地政学の見地から並々ならぬ脅威を感じ、ロシアの南下政策を阻止することに非常な努力を注ぎ、この衝突が19世紀のヨーロッパ史における大きな軸となった。
ロシア帝国の南下政策は、主にバルカン半島、中央アジア、中国及び極東の三方面において行わた。
振り返れば、明治時代の大日本帝国は、ロシア帝国の南下政策による脅威を防ぎ、朝鮮半島を独占することで、大日本帝国の安全保障を堅持することを主目的としていた。つまり大韓帝国の保全が脅かされたことが日本の安全保障上の脅威となったことを戦争動機に挙げている。
不凍港湾を欲するロシア帝国は、満洲と関東州の租借権・鉄道敷設権などの利権の確保、満州に軍を駐留させ、朝鮮半島での利権拡大における日本の抵抗の排除、直接的には日本側からの攻撃と宣戦布告を戦争理由とした。
ここからは政府の教科書の引用である;19世紀になるとイギリス、フランス、オランダなどの列強は東南アジアの植民地化を押し進めた。清国の弱体化を狙いイギリスは租借地を獲得し、またロシアは清国の内乱(義和団の乱)につけこみ、保護を口実に満州を占領し、あわせて朝鮮半島にも勢力を伸ばしてきた。大陸と日本海の中間に位置する当時の大韓帝国は、冊封体制いわゆる中華朝貢体系から離脱したものの、満洲を勢力下に置いたロシアが朝鮮半島に持つ利権を手がかりにして虎視眈々と南下政策を取りつつあった。ロシアは、鍾城・慶源の鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの国家基盤を取得して、朝鮮半島での影響力を増してきたが、ロシアの進める南下政策に危機感を持っていた日本がこれらを買い戻し、回復させた。当初、日本は外交努力で衝突を避けようとしたが、ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増していった。ロシア帝国は、不凍港を求めて南下政策を採用し、露土戦争などの勝利によってバルカン半島における大きな地歩を獲得した。ロシアの影響力の増大を警戒するドイツ帝国の宰相ビスマルクは列強の代表を集めてベルリン会議を主催し、露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約の破棄とベルリン条約の締結に成功したことで、ロシアはバルカン半島での南下政策を断念し、進出の矛先を極東地域に向けることになった。
近代国家の建設を急ぐ日本では、ロシアに対する安全保障上の理由から、朝鮮半島を自国の勢力下に置く必要があるとの意見が大勢を占めていたが、政府内では伊藤博文ら戦争回避派が主流を占めた。ところが、ロシアは、露清密約を結び、東清鉄道を敷設し、日本が手放した遼東半島の南端に位置する旅順・大連を租借し、旅順に太平洋艦隊の基地を作るなど、満州への進出を押し進め、更にロシアは清で発生した義和団の乱の混乱収拾のため満洲へ侵攻し、全土を占領下に置いた。
日清戦争から日露戦争、果ては太平洋戦争まで、日本の仮想敵国は常にソ連(ロシア)であったことは疑問の余地はない。戦後70数年経つが、現在のロシアの行動を見ていると、黒海での侵略に留まらず、冒頭から書いているシベリアからの南下政策は全く払拭されていないと考えるべきだろう。
これ以降は読者の賢明な想像に任せたい。
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